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【キャリア・新卒】面接官は名前をメモされるとドキッとする

通常、面接官は冒頭に挨拶をします。 「人事担当の○○です。」と一言、すばやく挨拶をします。 立ったまま挨拶をする場合もありますし、座ってから挨拶をする場合もありますが、この時に 名前をメモされるとちょっとだけドキッ とします。本当にちょっとだけですが。 面接官の名前をメモする人は少ないです。100人中2人か3人くらいでしょうか。新卒の真面目な学生さんか、こなれた感じのビジネスマンの方です。 面接の中で、相手の名前を呼ぶ必要が出て来たときに備えて、もしくは仲介している紹介会社への報告のためにメモされるようです。 通常のビジネスシーンであれば名刺交換をするので、わざわざメモする必要はありませんが、面接の場で名刺を渡す面接官はほとんどいません。私自身、相手が社員や取引先の紹介の方だった場合は渡していましたが、普通は渡していませんでした。 面接官は、あまり自分の名前を覚えてほしくない のが一般的な心情だと思います。 特に面接の冒頭時点では。 面接の終盤に差し掛かって、「よーし、この人絶対採用するぞー」と気合いが入って来たら、「何かご不明な点があればご質問ください。後日、気になることが出て来たら、私、人事の○○宛にご連絡頂いても構いませんので」とアピールすることもありますが、まだ相手が海のものとも山のものとも判別がつかない冒頭の状態では、自分の名前をプッシュすることはほとんどありません。 面接での採用率にもよるでしょうが、仮に10%だったとしても(かなり高いほうですが)、相手に良く思われる率と恨みを買う率を比べると、恨みを買う率の方が圧倒的に高いからです。 特にそのことを意識しているわけではありませんが、なんとなく自己紹介は早口になり、応募者の方が面接官の名前をメモされているのを見ると、「メモした...な...」となんとなく思うのです。 だから、面接の場で面接官の名前を覚えていなくても、何ら失礼にはあたりません。 いや本当に。 【関連記事】 【面接官の心得】窓のない部屋で面接してはいけない 【面接官の心得】マスクしないと出歩けない

【新卒】友達づきあいが苦手でも職場ではうまくやっていけることもある

友人がほとんどいません。 年を重ねるにつれ、その事実の寂しさをヒシヒシと感じることはありますが、だからといって職場で孤立しているわけではありません。コミュ障というわけでもありません。言うなれば目的や打算のない人間関係が苦手なのだと自分のことを理解しています。 友人関係というのは非常に難しいです。横並びの関係の中で、誰かと馬があって一緒に過ごすことに心地よさを感じるということは、かなり奇跡的なことですし、さらに1対1ですらないグループ付き合いともなれば高度なバランス感覚を求められます。 その点、職場での人間関係というのは非常にシンプルです。新卒で入社したてだとしたら、誰よりも自分が下の立場であることが明確なので、そのことを理解し行動に移しさえすれば、ほとんど問題はありません。うるさい上司や迷惑な先輩など、いけすかない相手がいたとしても、相手に対して自分がどのように行動するのが正解なのか、答えが明確なのです。 あとは、せっせと仕事をするだけです。多少人付き合いが苦手だとしても、黙々と仕事をして、それなりに成果をあげさえすれば、そのことについて文句を言われることはほとんどありません。からかわれることはあるかもしれませんが。 こんな風に、 人間関係を打算と序列で捉えるタイプの人 にとっては、学生生活から仕事に追われる生活へと移行することは、ある種苦難からの解放です。 友達付き合いが苦手だから会社でうまくやっていけるか心配、という方がいらっしゃいましたら、「そんなことは全く心配ない。むしろ今よりずっと楽になる」ということをお伝えしておきたいと思います。 【関連記事】 【新卒・キャリア】対人コミュニケーション能力って、低くなければOKだと思う事 【新卒】内定者同士の「仲良くしなきゃプレッシャー」について思う事 【心の問題】メンタルが弱いって、別に悪いことじゃないと思うこと  

【真心ブラザーズ】素晴らしきこの世界

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梅雨があけて本格的に夏になりました。 まだ内定のない新卒さんにとっては就職活動の第2幕への突入の時期です。 疲れてしまって「もう無理かも」という考えが頭をよぎりはじめた時に聴いてほしい曲です。 ※冒頭部分を聴いて「つまんねーな」と、もし思っても、2分40秒まで我慢してください。 ーーーーーーーーーーーーー 夜道を一人で歩いていたら どこから何やらカレーのにおい 僕もこれから帰るんだよ 湯気がたってる暖かいうち 素晴らしきこの世界 電車の窓から夕焼け小焼け よぼよぼばあさんひい孫あやす どうかみなさんお幸せに 車掌さん天国まで連れてっておくれ 素晴らしきこの世界 しゃべって怒ってむなしくなって 無口になったりまたしゃべりだす 僕はどうせならネコになりたいよ くだらないことから逃げて寝ていたい 素晴らしきこの世界 まん丸地球をこの目でみたい 一度でいいから本当にみたい 宇宙の果てってどんなところ 時間と距離を超えた世界 素晴らしきこの世界 海からお日様はじき出され 新しい手つかずの一日始まり 僕は大好きなベッドのなか ボケた頭でくしゃみを一発 素晴らしきこの世界 民族紛争 果てしない仕返し 正義のアメリカ ミサイルをぶちこむ 飢えた子供の目つきは鋭く 偽善者と呼ばれて自殺する男たち 素晴らしきこの世界 バイクでスピードこの身を任す 色んな風景うしろへふっとぶ さてと僕は何をしようか 少なくとも校舎の窓は割らないよ 素晴らしきこの世界 オレはいつでも ムキムキムキムキになる どうでもいいことでも ムキムキムキムキになる 口から泡とばし ムキムキムキムキになる 大事なことなおさら ムキムキムキムキムキ 笑った顔から怒った顔へ 感情の津波が波止場をおそうよ ノードラッグ ノーアルコールで爆発しよう ユメをみる前に現実をみよう 素晴らしきこの世界 オレはいつでも ムキムキムキムキになる くだらないことでも ムキムキムキムキになる どうでもいいことでも ムキムキムキムキになる 大事なことなおさら ムキムキムキムキムキ 僕の体にあふれるエネルギー あらゆる困難もぶちこわし進むよ 悟り顔の若年寄にケリを入れて バネをきかせて世界を変えるよ 素晴らしきこの世界 ー...

【キャリア・新卒】企業の2:8の法則はアリ社会とは違う

2:8の法則、ニハチの法則と呼ばれたりしますが、正確にはパレートの法則と言うそうです。 アリの社会では、2割が働き者で6割が普通、残り2割が怠けものだそうです。これを企業に当てはめてそれっぽく語る人がいますが、私はアリ社会と企業の2:8の法則は別物だと思っています。 とは言っても、企業の中でもパレートの法則自体は存在するので、2割の製品や商品、業務内容が売上げの8割を占めるというのはよくある話です。 上位2割の仕事に携わっている2割の人達は、企業によってはエリートと呼ばれているかもしれませんし、またある企業では花形部署の社員かもしれません。一方で残り8割の人々は何をしているかというと、人事のような管理部も含め、花形以外の地味な部署で毎日せこせこ働いているわけです。 最近しみじみ思うのは、 この20%を存続・維持させるために残り80%が働いているのが企業のあり方だ 、ということです。 20%の選ばれた状況にいる人々が華々しい成果をあげられるように残り80%の人達が土台になっている 、という言い方がしっくりきます。 だから、「企業の中にも2:8の法則が存在する。20%の社員が収益の80%を生み出している。君たちはその20%にならなくてはいけない。」といったような話は実に全く明らかに間違っていると思うのです。 仮に今やっている仕事が実に評価されづらいもので、気持ちが腐りそうだったとしたら、20%の人々が生み出す80%の利益は、実はあなた自身の仕事を礎にしていると考えてみるといいと思います。もしくは、仮に今やっている仕事が花形のものだったとしたら、あなた自身の力で80%の利益を生み出しているのではなく、実際は残り80%の人々の礎の上にそれが成り立っていると考えてみるといいと思います。 まあ私も昔は、「自分はニハチの法則で言うと、二のほうだな、へへ」とか思ってたんですけどね。 【関連記事】 【新卒・キャリア】私は自分が思っていたほど優秀ではなかった  【キャリア】転職したら、以前ほど活躍できていない自分

【新卒】ゆとり世代は懐疑と贖罪と再建の狭間にいる (続き)

先日の ゆとり世代は懐疑と贖罪と再建の狭間にいる の続きです。 ゆとり世代と言われるような今まさに就職活動適齢期を迎えている皆さんは、今までの企業のあり方っていうのに懐疑的なんですよね、という話でした。 じゃあこれからどうなっていくのか、ということが大事なわけですが、個人的には 「仕事なんて食えりゃいいんや」 と言い放つ「はるき悦巳」のようなかっこよさが主流になっていくのではないかと思うのです。 経済が上向いていて何事も「右肩上がり」がスタンダードな世界から「横ばい」が維持できればオーライ、という状況になりつつあると思うのですが、だけど上の年代がつかえているせいで雇用のチャンスは平等ではありません。 単に横ばいになるだけであれば、一人抜ければ一人補充することになりますが、その一人が抜けないから補充もされないわけです。 仕事がよりどりみどりであれば、「自分は何の仕事をすべきなのか」ということについて頭を悩ませることができますが、選べない状態になってくると、生きていくための糧として「仕事は仕事」として保持しつつ、それ以外の部分に生き甲斐や自分らしさを求めて行くようになるのが必然だと思うからです。 たくさんの洋服があれば、その中で何を着ようかと迷うことができますが、サイズがあうのはTシャツとGパンしかないのであれば、他の要素で個性を出すしかないの状況と似たようなものだとイメージしてください。 だからこそ、企業側からしてみると今までどおりのスタンスではありますが、「仕事を通じて何を実現したいか」とか「どんな風に仕事をしていきたいか」と問われても、どうもピンとはこないわけです。 そういう世代の人たちが社会の中の主流になっていく中で、今までの企業価値とは違う何かが再建されていくはずなのですが、そういった価値の転換にはもうしばらく時間がかかるだろうと思います。 タイトルにあえて「贖罪」という言葉を使ったのは、その価値の転換の中で、負ってもいない罪に対して罪滅ぼしをしていくことになるんだよなあ、きっと、と思ったからです。  私個人は、団塊の世代でもなければゆとり世代でもないので、揺れ動きながら「これから先、どういうスタンスで仕事して行こうかなあ」なんてことを仕事帰りにぼんやり考えたりしています。 まとまりません...